小中学生の「留年」って、子どもを「想う」って…?
おとといだったでしょうか?
大阪市長・橋下さんの、教育についてのニュース。
公立小中学校で、留年があってもいいというやつです。
「5年生が4年生のクラスの授業を聞きに行く、
4年生が3年生のクラスの授業を聞きに行くということがあってもいい」
という橋下さんの発言の部分が流れていました。
そんなこと、できる?????
そんなこと、自主的にできる子どもって、いると思いますか?
「ぼくは算数が苦手でよくわからないから、
ちょっと4年生の授業を受けてみたい」なんて、
そんな「いい子」がいたら、怖いです。
下の学年の授業を受けに行く。
そんな光景があるとしたら、それはやっぱり、
「大人による一方的な評価と、命令」
によるものでしかない。
「できない」という評価を一方的になされ、
その後の処遇を勝手に決められる。
「じゃあがんばればいい」って、前向きに考えられる子はいるでしょうか?
もし、それが私なら…?
それも、今の私ではなくて、
世界がまだ狭くて、大人の影響力が絶大で、友達との関係が大事で、
10年かそこらしか生きていない、子どもだったら…???
下の学年の子だって、色眼鏡なく受け入れるでしょうか?
親は?きょうだいは?
なにより、同じ学年の友達は???
大親友は??
「できる・できない」
それを意識するようになるのは、4歳ころです。
あの子は○○ができるようになった、でも自分はできない。
自分は○○が上手だ、でもあの子はまだうまくできない。
他者と自分の姿を、客観的に見られるようになるのです。
そして、できないことがあると、
「いまはできないけど、できるようになりたい!」
そんな前向きな気持ちと、
「できないから恥ずかしい」
「うまくできないからいやだ」
そんなもんもんとした気持ちを抱きながら、
それでもできるようになりたくてがんばることができたり、
くじけたり、涙が出たり、
でも友達と応援しあって勇気をもらってがんばったりして、
できるようになる。
4歳という小さい彼らにも、「自尊心」がある。
それを周りの大人はわかってやりながら、
「できることになるってうれしいよね」
「がんばってるね」
「もうちょっとでできそうだね、すごいね」
「できた!やった!やった!」
って、共感して、
子どもの「できるようになりたい気持ち」を大事にしながら、
「できるってうれしいな」「わたしってすごいな」
って、子どもが自分で思えるようにサポートする。
がんばることの尊さ、できることのすばらしさを自分でちゃんと感じ、
自分はがんばれる、そしてできる、価値のある人間だ。
子どもにそういう心を育てていけるよう努力することが、
大人の務めのはずです。
それは、小さい子でも、大きな子でも、変わらない。
大人だって同じです。
私たちは、
他者から認められて初めて、自分の価値を感じることができるのだから。
子どもを学力という面で一方的に評価し、
それがその子のすべての価値であるかのようにして
子どもに競争を課す。
それは、いちばん楽で、そして乱暴なやり方です。
学校は、勉強をするところだけれど、
同じ年頃の友達と集団で暮らすことができる大事な場です。
そこで、ケンカしたり、もめごとがあったりしながらも、
友達っていいな、仲間っていいな、
クラスのみんなで何かができるって楽しいな、
そんな、人とふれあうことの楽しみを、豊かに味わえる場所です。
その大事な場所を、子どもたちにも親にも先生にも、
競争の場としてのみ感じてしまう制度はあってほしくない。
1年生の次は2年生、その次は3年生、…。
「あなたはここにいていい、何が得意とか、何ができないとか関係ない、
○○市の、○歳の子どもという、それだけでいい」という存在の保証。
それさえも保障しないというのは、横暴にすぎます。
それも、学力の面だけで。
「○年生になったら、…」という明日を夢見ることも許さないなんて、
許さない。
子どもには、居場所が必要です。
条件付きでない、「あなたがいていい」場所。
家庭にも、一日の多くの時間を過ごす、学校にも。
居場所があって、自分を認めてくれる場所があってはじめて、
自分を大事にする心や、自尊心が育ちます。
わたしは、
子どもに多くを求める前に、与えるべきものを、ちゃんと保障してあげたいです。
障害のある子のこと、音楽や体育のこと、いろんな課題をはらむ問題です。
橋下さんも、子どものことを想って、という部分は変わらないはず。
多くの人に、子どもたちのことを想って、たくさんの議論を尽くしてほしいです。